企画・企画書のヒント−“なぜ”から考える51−なぜ、叱られ上手であるほうがよいのか?
それは“なぜ”なのか、理由がわかることで、見えてくることがある。あたりまえと思っていることでも、“なぜ”当たり前なのかはわからないことがある。そんな“なぜ”を、日常の世界から探し、考えることで、企画や企画書づくりのヒントにしようというのが、このシリーズの趣旨。
しかし、この、“なぜ”のその探究には、著者なりの主観や直観、推測、憶測、感覚、本能、そして何よりも企画マンとしての資質が含まれている。なので、読者の方は、ここに書かれていることを簡単に信じないで、自分なりにとらえ、解釈、思考、分析してから、自分の意見として採用するように。
●なぜ、叱られ上手であるほうがよいのか?
叱られ上手になることで、世界を広げることができるからである。
<見方>
駅の喫煙場所以外でたばこを吸ったり、電車内のシルバーシートで堂々と携帯で話をしている人がいる。こういう人の中には、注意されたからと言って、注意する人を殴る人がいる。また、先日は、高校生が塾で叱られて、むしゃくしゃしたという理由で、無差別に人を刺した。
いけないことをするのを見たら、注意したり、叱ったりするのは当然のことであるが、注意したり、叱られたりしたからと言って、暴力行為に走るのは、その人の未熟さ以外の何物でもない。
悪いことをして指摘されると、悪いと思っていても自己正当化してしまうのは、人間的な感情であるともいえるが、しかし、それはとても短絡的である。
注意されたり、叱られた場合の対応は、大きくわけて4つしかない。1に素直に認め受け入れること、2に理由があればきちんと反論すること、3に感情的になること、4に無視することである。暴力行為は、3に入る。
よいのは、もちろん1か2であるが、これは、注意されたり、叱られたことを冷静に受け止めることでもある。そして、この対処の仕方が叱られ上手になる。
叱られ上手になるためには、注意されたり、叱られたりする経験が必要である。親や先生、上司から注意されたり、叱られた経験をもつことによって、その対処の方法を学ぶのである。
叱られたことのない「いい子」もいるが、これは、叱られたことがないというだけであり、「いい子」と見たい、見る側の願望であることがほとんどであると思っていたほうがよい。例え本当にいい子であっても、ある意味では危ない。大人になって、注意され、叱られる対処の方法がないから、注意や叱られただけで切れやすくなる。
叱られ上手になることで、人の受け止め方が広がる。そして、それを素直に受け入れれば、一歩足を踏み出すことができる。だから、人が成長できて、世界が広がる。
批難や中傷と、注意や叱ることの違いは、相手のことを考えているかどうかである。注意されたり、叱られたことを批難や中傷と受け止め、感情的に対応してしまうのは、これらの区別ができていないともいえる。
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