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2007年2月24日(土曜日)

『「家族」と「幸福」の戦後史−郊外の夢と現実』三浦展著を読む

カテゴリー: - hagiri @ 09時29分46秒

日本の高度成長期、
豊かな社会を目指し、
幸せな家族を築くために、
郊外へと向かう人々が出会ったものは何か、
それを明らかにしようとする。

著者によれば、
「郊外」をテーマにした初めての本であるという。

現在の結果としての郊外とは、
機能性ばかりが優先される均質な空間である。

郊外では、同じ間取りの家が並ぶ。

それは、かつてあった、
外部と我が家を結ぶ縁側などの
「あいまいでムダな空間」
がないことにも現れている。

どこからきたのかわからない人達は、
またどこに行くのかわからない。

こういった場所では、
地域性など生まれない。

そこに住む家族もみな同じようだ。

会社勤めのお父さん、
専業主婦のお母さん、
勉強熱心な子ども、
という一見幸せに見えるが、
実は型にはまった幸福像がある。

お父さんは、仕事に出かけてしまうから、
かつてあったような
働く父としての存在感を示せず、
父親としての権威を喪失してしまった。

これは、カラダで働くこと見せたり、
子どもはそれを見て覚えたりという、
人の身体性の共有という大切さの喪失、
という問題につながっている。

その上、いつも会社にいるので、
地域的なつながりも持つことができない。

お母さんは、
一見、充実したキッチンのある
すばらしい家の中で、
家事と家族の幸福を願う生活だけでは、
生きがいにつながらず、
窒息しそうになってくる。

生まれたときから
物質的に恵まれた子どもは、
豊かであるがゆえの苦しみを味わう。

何かあったとしても、家の中は、
遊び、逃げ場のない間取りであり、
外に行っても、
回りには私有空間としての
他人の家があるだけという
二重に閉ざされた空間の中で、
行き場がなくなっていく。

家族は、商品を買うことによっても、
豊かになったが、
同じ商品を買うことで家族になった、
という面もある。

家族は作られたものだったのだ。

こうした均質な家族が、
また再生産される場所としても、
郊外があるのである。

これが、かつては夢であった、
芝生の庭がある郊外のマイホームの実情である。

幸福であるとは何か?
難しいテーマではあるが、
夢の郊外におけるマイホームに
それがあるのかどうか、
という根本的な疑問を提示している本である。

※私が、小林まことのマンガ
「1・2の三四郎」の中で、
1番印象的な言葉は、
元空手世界チャンピオンの成見頁ニが言った
「何不自由のない家庭に育った不幸がわかるか」
であったが、
なぜ、この言葉が印象的であったのか、
この本には、その解答がある。

#読書時間 3時間
★5つ ★★★★★


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