企画・企画書のヒント−“なぜ”から考える86−なぜ、人は死ぬのか?
それは“なぜ”なのか、理由がわかることで、見えてくることがある。あたりまえと思っていることでも、“なぜ”当たり前なのかはわからないことがある。そんな“なぜ”を、日常の世界から探し、考えることで、企画や企画書づくりのヒントにしようというのが、このシリーズの趣旨。
しかし、この、“なぜ”のその探究には、著者なりの主観や直観、推測、憶測、感覚、本能、そして何よりも企画マンとしての資質が含まれている。なので、読者の方は、ここに書かれていることを簡単に信じないで、自分なりにとらえ、解釈、思考、分析してから、自分の意見として採用するように。
●なぜ、人は死ぬのか?
この世でやるべきことがなくなったからである。
<見方>
生死の問題は、哲学、宗教、文化など、さまざまな視点から論じられるが、もっと個人の日常感覚でとらえるほうが、とっつきやすい。といっても、それは結局、どこかで宗教や哲学の問題とつながってしまうのであるが、あまり深入りしないところで考えてみよう。
何がいいたいかといえば、ある本を読んでいて、死は生の行き着く先にあるという考え方よりも、死は生といつも隣り合わせという考え方のほうが、生死観として正しいと思えたからだ。いっぱい生きたのちに死ぬのではなく、生というのは常に死のリスクにさらされながら、どこかの時点で、死に囲まれるというイメージ。この生と死の隣り合わせ感覚。
40歳も過ぎると、親の世代が、少しずつではあるが死んでいく。身近な人がいなくなっていくのは不思議な感覚がある。死んだ本人からすれば、生のあとの死なのかもしれない。しかし、見送る私からすると、なぜ今死んだのだろうと考えたくなる。隣り合わせの死のほうに、なぜ今行くのか? 身近の人の死は、本人の消失の問題ではなく、残された側の今の消失感にある。
ちょっと話がずれるが、実業家の中には、そうではない人ももちろんいるが、長生きした人が目立つ。故松下幸之助氏、故鬼塚喜八郎氏、故安藤百福氏、故中内功氏など、みなさん、90歳前後まで生きている。平均寿命を上回る長命である。
これらの方に共通する何かを一言で表すとしたら「執念」であろう。自分なりにやるべきことを見つけて、それに対する執念があった。しかし、このような名をなした人でなくても、90歳以上にもなって、まだきちんとコミュニケーションできるおばあちゃんと話すと、何かを感じるものだ。この何かが、死を引きよせることなく、遠ざける理由であるような気がする。
寿命というのは、生のあとにくる死ではなく、その人が今この世でやるべきことがなくなったときにくるものである、と思うのである。
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